31→32

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4月10日。
31歳最後の夜、今日が最後だからと思って、
一人で31アイスクリームを買って一人で部屋で食べた。
初めてここのアイスを自分で買って食べたけど、
すごくおいしかった。
バーガンディーチェリーとココナッツグローブ。

4月11日。
32歳になった。
相変わらず、誕生日は一人で過ごしたけど、
いつも通りよりも多く、お祝いを言ってくださる方がいて、
素直に喜びました。
(まあ、いつもよりも会う人に積極的にアピールしたから!(^^))

誕生日プレゼントくださる方もいらっしゃいました。
ありがとうございました!!!

そして、石巻に物資を持っていった僕のことを絵にしてくれた方がいらして。
これがとっても嬉しかった!!!
あったかくていいでしょーっ

彼女いない歴も7年越え。
もう、なんだかそれでもいいような気になってしまった、春。
Read On

石巻の詳細報告と今の心境

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石巻へのお届け報告




こんにちは。

河村貴行です。



ごめんなさい。

簡単なご報告から時間が経ってしまいました。

石巻市へ皆様からいただいたお気持ちを届けた詳細のご報告させていただきます。

まとめるつもりで書いたのですが、まとまらずに読みにくくなっております。。。





僕は、3月29日(火)、単身で、バスに乗り、宮城県石巻市へ行きました。



【生身で現地入りする目的】



①今、本当に必要としている人のところに必要な物資を一刻も早く届けるため。

②現場を肌身で受け止め、今回の震災に向き合い続けるに当たり継続可能な自分になるため。

③2~3ヶ月後に必要なものはどんなものを探り当てるため。

(友人からありがたい電話がありました。「実家が中国で生活雑貨もろもろ(キッチン用品、トイレ用品、いろいろ)を作っています。貨物列車のコンテナいっぱいに大量生産し、送ることが可能です。作るには2、3カ月かかります。作って支援したいけど、何が本当にその頃必要になるのかわからなくて。何かつかめたら教えてください」と。)

④もし、現地の人に受けいられ、望む人がいらした場合、呼吸法とシンプルなヨガ(体全体で息をしてみたり、少し胸と背中を交互に開いたり、名前のついていないようなシンプルなもの)で、自立して体のケア(=心のケア)に繋がることを一緒にする。





【皆様からいただいたお気持ちをお届け】



Round the World Yoga Parkを通じて、皆様から、苦しい思いをされておられる方々へのお気持ちが集まりました。それを、必要と思われる物資に出来るだけ形を変えて、現地に僕の手で持ち込みました。それを、石巻市でチームを組んで、物資不足の個人宅に、物資を届けておられる、ベロさんに託しました。



Round the World Yoga Parkで繋がる皆さん一人ひとりの気持ちは、88,764円分となりました。これを現金と物資にして渡しました。現金は37,409円(皆様から預かった気持ち88,764円-物資購入費)。物資は【チョコチップクッキー(ファミリーパック)×30、サバ缶(3種)×50、ピーナツミックス×10、アウトドア非常食各種×37食、漬物や振りかけ類パック×14、カロリーメイト15箱、マルチビタミン&ミネラル×5(500日分)、葛根湯×5箱、アルコール除菌ウェットティッシュ2個パック×5、消毒用アルコールジェル×5、長靴×1足】



かかった費用は、交通費9,600円。食費はきちんと計算していませんが、一人暮らしのため日頃とさほど変わらない金額。宿泊費は外で寝袋で寝たので0円。

交通手段と時間が限られていたため、その範囲内で努力し、ベロさんと30分弱お話をすることが出来ました。





【ベロさんから聞いた状況(3月29日現在)や活動の様子】



電気は付いているところとそうでないところとがあるそうです。実際、通りを見ても街灯が灯っている通りと灯っていない通りとがありました。水道はまだ3割程度しか通っていないそうです。ベロさんと立ち話をしていたバスの臨時発着場はすでにある程度綺麗になっていましたが、そこも腰の高さまで水没していたそうで、(指をさして)「あの防波堤くらいしか歩けるところがありませんでしたから」と。バスが通ってきたバイパス通りはよくあるような郊外の綺麗な通りの姿を取り戻しつつありましたが、そこも2mの深さまで水没していたと聞き、僕は驚きました。通っている最中はそういう想像はできませんでした。



ベロさんの活動について(ベロさん、もしいろいろ書きすぎていたらすいません。応援の気持ちで書いています)いくつか書きたいと思います。



震災の翌日?くらいから自分たちで車を走らせて、仲間内で「こっちの道は通れない、こう迂回しないと行けない」などと情報共有をしていったそうです。消防や警察はそのあとの日に入ってきて、それらの情報をそれらの組織に提供したと。



ベロさんは「今回、全国の仲間からの心のこもった支援が、本当にうれしい。自分の家は住めない状態で、今は兄の家にいます。車はギリギリ水没を免れたので、この通り、フケは悪いんだけど走ります。体が動く限りはこの活動をします。明日から本業の仕事が始まり、正直しんどいし、フルには動けないけれど、やります。」というような内容を、目の奥に強い光を宿しておっしゃいました。市の動きはとてもじゃないけど待てないともおっしゃってました。



震災があって、最初の日は500人の避難者だったところが、次の日には1000人になっているようなことはざらだったそうです。被災地点が、自宅近く以外の人も当然多く、震災から3日くらいしてやっと自宅近くの避難所に戻ってこれた人もいて、変動が大きいと。震災から4日立つ頃にはベロさんは物資を運んでいたそうですが、ベロさんの言葉を借りれば、物資を届けるのも、予想がつかない変動が多く、「ゲリラ的」ということでした。



ベロさんは、最初は避難所への物資を運んでおられましたが、物資が避難所のほうに入ってくるようになってから、自宅にいて物資が届いていかない人々へ届けることを始められました。手探りをしながらシステムをつくっていったそうです。それぞれの地区長さんと話して、たとえば、「おにぎり一個とバナナ一本」とベースを決め、それに各家庭に必要そうな物資、たとえば赤ちゃん用品や女性の生理用品などを付け足していくスタイルで、物資の調達量を調整して、公民館にダンプする仕組みをつくっていかれました。そして、それを稼働させておられます。自宅で避難生活をしている人々は、公民館に行くことで必要な物資を受け取れるという流れができたのです。「田舎だから、結構、地域の繋がりがしっかり機能しているんです」と聞き、いざというときになってその繋がりの有り難さがわかるのだなと思いました。少なくとも今、僕の一人暮らしにはない繋がりです。



今は、有り難いことに4トントラック3、4台分の物資が入ってきて、仕分けと分配のほうが大変な状況とのこと。しかしながら、食料は依然不足している。なかなか言いにくい女性の下着や生理用品などはまだ必要とされている。衣料品は余ってきていると。



被災状況もいろんなグラデーションがあります。家族や友人の安否もそれぞれで抱えている状況が違います。家の被害も、丸ごと流された人もいれば、2階は大丈夫な人もいる。そういったそれぞれの事情を抱えている中で、目の前に見える態度が、少し心を穏やかにさせないことも出てきているとのことです。そういうものがベロさんには見え始めてきたそうです。例えば、家がある人でも、頑張って仕事をしに行く人も多いのに、家が流されて避難所生活している人の中には口をあけてただ待っているだけの人がいたりする。動いている人からすれば「家族を失くしても動いているのに、あんただけじゃない、みんな同じなんだよ!」という気持ちも起こる、と。おそらく逆の立場からはまた言い分はあるだろうとは思いますが、それぞれの中で相当な疲労とストレスが蓄積されているのは確かだと思います。

ベロさん、お忙しい中、本当にありがとうございました!!
僕は、ベロさんの活動を応援しています!!!!!



【肌身で感じたこと】



正直なところ、避難生活、ライフラインが断たれた生活の現場には居られなかったので、その様子を肌身に感じることは出来ませんでした。やれたのは宅配屋さんのようなことだけです。しかし、その中で見たこと感じたことを書いてみます。



僕がお話を聞くことが出来た被災者はお一人だけです。それは、自ら家を失っても、体が動く限り物資を届けるために活動を続けておられるベロさんです。ベロさんは目の奥に力強い光を宿しておられました。逞しさをお持ちでした。少なくとも僕と話している間は、沈んでいる暇はないという印象でした。





【石巻市の町の様子】



2車線のメインストリート?のアスファルトは全体に砂っぽいが綺麗に。しかし、ベロさんの車が昨日パンクしたということから、バスの通り道のようなメインストリート以外の道にはいろんな破片が多いということがうかがえます。



川沿いに大きな冷蔵庫が打ち上げられていたり、川にかかっていたであろうデッキか橋かが川面に斜めに突き刺さっていたりしていました。



町中のお店の軒先に「ご支援ありがとう」の垂れ幕がかかっているのが目に入りました。現地で確かに全国からの支援を受け取っているという意思表示を受けとることができ、嬉しく思いました。



石巻の大橋臨時バス発着所から仙台へ向かうバス。

僕が乗った最終便は17時40分。

僕の隣の女性は2人組み。親類に会いに来ていたのでしょうか。普通の生活のオーラでした。余裕があるように思いました。バスの外には幼稚園か小学生低学年くらいの子供たち5、6人がいました。「Iちゃん! Iちゃん!」と僕の隣の女性の名前であろう、無邪気に体全体を使って手を振ってその名を呼んでいます。隣の女性が普通のように手を振り返しています。もう一人の連れの女性が「いつもこんなに(子供たちが)見送り来るの?」と聞き、「いつもよりも多いよ。お肉(を持ってきた)効果かな?(^^)」と返していました。子供たちの後ろにまだ小さな子を抱えた母親と父親が見えました。笑顔で子供たちと一緒に手を振っています。バスが動き出しました。刹那、その父母の表情だけが崩れ始めました。僕には、子供たちよりも、大人たちのほうが「行かないで」と訴えているように見えました。僕は思いました。2人の訪問者が来てくれて、“普通”でいてくれたことで、家族はひと時の“普通”に戻れたのかもしれないと。今の状況の中では、訪問者に臨むのは、いままであった“普通”をもたらしてくれることかもしれないと思いました。バスを見送るわずかな間に、家族の中で、父母だけが、“普通”から今ある現実に意識が戻ってしまったのかもしれません。もちろん思い違いかもしれないけれど。バスがバス臨時発着所を離れてしばらくして、隣の女性は前の座席に頭をつけてうつぶせていました。「頭が痛い。もうダメ」と連れの女性に漏らしていました。寒い環境で生活する間に風邪をひいてしまったのか、相当辛そうで、カーブごとにぐったり僕にも寄りかかってきました。一生懸命“普通”にしていたのかもしれません。





【仙台市の様子】



スーパーは営業していましたが列をつくって並んでいました。郊外のコンビニは空いているところもありましたが、中をのぞくと棚が空っぽ。大きな全面ガラス張りの建物はガラスが粉々になったまま散らかっているものがありました。NTTの建物も一部の壁が崩れていました。建物は全体的に古い建物は一部崩れていたりしますが、新しいものは見た目は大丈夫そうです。昼訪れたときは人も多く活気を感じましたが、夜訪れたとき、19時台では明かりもまばら。人もあまり歩いていません。松屋などのチェーン店も営業をしていませんでした。大きなアーケード通りでは、数か所だけ居酒屋チェーンが営業。呼び込みの掛け声は普段は人ごみに吸収されるのでしょうが、アーケード内に異様に響き渡り、より一層がらんとした空気を印象付けていました。そのとき聞いた話によると、都市ガスが復旧していないらしいです。ガスを使う飲食店は営業が難しいのだろうと思います。





【繋がり】

僕が石巻に向かうことを発信したものを受け、友人Aさんが、幼少、中高と石巻で過ごしてきたことを教えてくれました。僕はAさんと話すことはよくありましたが、それは知りませんでした。Aさんのご友人がまたご友人を紹介してくださり、その繋がりで、僕はベロさんとコンタクトをとることが出来て、物資や支援金を託すことが出来たのでした。



Aさんは、その後もご友人を通じての必要とされる物資情報や、物資の受け入れ態勢、バスの運行情報まで、細やかに情報を提供してくださいました。それで僕は、実際にはかなりスムーズに現地入り出来たのでした。



そして、新宿からバスで東北へ向かうバスの出発の朝、Aさんは出勤前にご自身で物資と義援金をバスの発着所まで届けに来てくださいました。「石巻に向かってくれて本当にありがとう」と。さらには、お昼のおにぎりと「たかさん自身もどうか気をつけて」という暖かいお心遣いまでいただき、東京を出発することが出来たのでした。



おにぎりはそのバスの中でいただきました。そのおにぎりがどうしようもなく美味しくて、米の一粒一粒がそれぞれに自分の存在を主張してきて、作り手のAさんの想いを受けとめる思いでした。大げさではなく、これからやろうとすることに対して、このおにぎりを食べるごとに緊迫したものが込み上げてきました。初めてです。おにぎりを食べることによって緊迫感を味わったのは。



Aさん、本当にいろいろとありがとうございました!!!!!



山口のヨガイベントもそうですし、東京のイベントでもそうです。

とても多くの人々、70名を超える人々にいろいろな場面で支えられました。

そして、各人それぞれに抱いた東北の方々へのお気持ちを預かりました。

そのお気持ちを現地へ届けるに至りました。

僕自身、こんなに繋がっているとは今回初めて思い知りました。

皆さん、皆さんとの繋がりに、心より感謝しています。
本当にありがとうございます!!!!!
素晴らしい方々に囲まれていることを実感しています。



【確かだと思ったこと】

今回やれたことは、小さなことでした。

そして、確かなことでした。



自分の意思を今ある繋がりの路線に発信することで、

「こうだ」と思っていた繋がりが、

「こうだ」「こうでもあった」「その先がこうだった」と複数の繋がり方をして

返ってきたのでした。



今回の繋がりは最初から全てすでに繋がっていたものに、

これまでとは違う力加減の自らの意思が流れ込むことで、

自らがその繋がりに気づくことが出来たと表現できます。

それによって、ラインが開け、結果、目的まで到達できたのでした。



体感的にはご縁が繋がって奇跡的に早く物資を届けられたという感じですが、

本質的には、すでに自分の内に持っている繋がりに気づけ、そこに働きかけられただけなのだと思います。



確かめたのは、

「すでに自分の内に持っているものから出来た」

ということ。

「奇跡と思われることは、すでに持っているものからつくり上げられる」

ということ。



すでに持っているもの(自分の性格や能力、人や物や得意な技術や関係性)を活かす。



いろんな人が自分の持っているものに気づき、活かすこと。

各地ですでにもっているもの(特に得意なもの)を活かした支援がなされていますね。

とても奮い立たされる思いです。個人、メーカー、関係なく。



自分にはこんなにも素晴らしいものがある。

それにいち早く気づく。

それを自分が一番力を発揮できる形にして、動かす。



これまでの社会生活で「自分は取るに足らない」と思っていた人がいかに自分の出来ることの素晴らしさに気づき、動かせるか。

いろんなグラデーションの被災された方々も含め、日本の島の上に住む人間一人ひとりが、自分の得意なことをやる。これが一番効率よく大きな力を出せる、奇跡の日本新生形態じゃないかと思います。



少なくとも、うんこですら、出来ることがあったんです。小さいけど。

日本国民のほとんどの人はこれ以上、これ以外のことができるでしょう?

そうでしょう?



東北の支援は、日本というこれまでにない住みよい家をつくることでも出来ます。

東北の人々も、日本と言う家に帰りたいはずですから。

帰るべき家をしっかりつくっていくことも大切。





一人でも多くの生命の追い風になるための、
瞬発的な支援は意味のある形で出来たと思います。とても小さいけれど、確かに。

この先、どう長期的な支援が出来るのか、まだ自分の中でパズルですが、きっと、近いうちにふっと組み上がると感じています。



この震災と現地の人々と自分は他人事ではないということを

体に刻みました。





石巻から東京へ向かう道中に祖母の危篤を知らされました。

山口に帰りました。



ばあちゃんが

生きているとき、

苦しそうだったけど息をしているとき、

息を引きとってまだ暖かいとき、

冷たくなってもまだやわらかいとき、

棺桶の中でも綺麗な顔のとき、

骨になったとき、

それを拾ったとき、

壺にはいったとき、

お墓にはいったとき、

全てを見届けることが出来ました。



亡くなった夜、病院の慰安室で、僕は、

ばあちゃんと二人きりで夜を過ごすことができました。

お通夜の夜、葬儀場では僕と弟とばあちゃんとだけで、一晩過ごしました。

この原稿も葬儀場で書いている部分が多くあります。



こうやって、変わりゆくプロセスをずっと見届けられたことにとても幸せを感じました。

「東北の人にはこれが出来ない人が多くいるんだ」

そう思うと。



ばあちゃんが息を引き取った部屋は

「311」



僕には

「3.11」

にどうしても見えてしまいます。

ばあちゃんが今、何と言っているのか。

感じようとしているところです。



原稿を仕上げている今日、4月11日は、

震災から一カ月。

そして、僕の誕生日です。



32歳どう歩むか。




 
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